Mario Pornaro(マリオ・ポルナーロ氏)

代表農園:Fazenda Esmeril Maringa(エスメリール・マリンガ農園)

Mario Pornaro(マリオ・ポルナーロ)

1932年12月18日、独裁者ムッソリーニが支配していたイタリアにLittoriaという町が出来た。ムッソリーニはこの町をイタリアの農業生産地の中心として、全イタリアの農産物をここで生産して自給自足の出来る体制を計画していた。Mario はこの様な時代、1933年2月14日、この町の農家の息子として誕生、将来農業に従うべく育った。第2次世界大戦を経験し、敗戦とムッソリーニ独裁政権の没落をも見た。ムッソリーニ没後、町はLatinaと町名を替えた。彼の農業生活体験は、この地方で栽培されていたリンゴ、ブドウ、野菜、トウモロコシ、小麦等を通してであった。

1950年頃のイタリアは敗戦後の不況のどん底で。国民は新天地を求めて新興国ブラジルへの移住が盛んになり、1952年Mario19才の時、彼もブラジルに移住した。ブラジルに移住した彼らは、サンパウロ州オリーニョスのコーヒー生産地へと集まって行った。Marioも同様に1年余りそこに滞在し、その後パラナ州マリンガへ移動した。市誕生1年の新興都市マリンガは地形、地質、気候等、コーヒー栽培に適した条件を備えた町として大きく発展していた。

Marioはこの地で8年間借地農としてコーヒー栽培に従事し1961年 GOIOERÊに初めて農場を購入してコーヒー、トウモロコシ、大豆の栽培を始めた。

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霜害

1975年パラナ州のコーヒー産地は大霜害に襲われ殆んどのコーヒー樹は霜により消滅した。幸いにも収穫後の霜害であった為、その年の収穫量には影響はなかった。皮肉にもその年のパラナ州の収穫量は、ブラジル全土のコーヒー収穫量の50%(10.000.000袋)に及ぶ収穫を上げていた。そして次の年1976年には霜害の影響によりパラナ州の総生産量は4.000袋ブラジル全収量に1%と云う哀れな結果となった。Marioはその後10年この地にとどまり栽培を続けていたが、霜害を心配しながらのコーヒー栽培より逃れ、新しい土地の選択に当たって行った。

 

 
 

 

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セラード・ミナス

この地方は1970年頃よりコーヒー栽培がはじまり1975年パラナの大霜害以後多くのコーヒー栽培者達がこの地方に流れ込み1980年代にはブラジル国内でも有数なコーヒー栽培地となった。この地方のコーヒーの特長は、高品質なコーヒーとして市場で取引されている。

1984年Marioもこの地域のPatrocinio市に農場を購入しコーヒー、トウモロコシ、大豆を栽培した。

 

ESMERIL  MARINGA農場

Chapadão de Ferroと呼ばれる地域に240㌶の農場を購入した。海抜1260㍍の農場にはAcaia,Catuaiの2種類のコーヒーを栽培している。残りの72㌶は自然保護区として保存されている。農場経営は通常5名の従業員で管理され、農場内の灌漑設備は全て畝間に残した草によるグリーンベルトにより湿度調整がなされている。収穫時には10名の臨時雇いにより、機械による収穫が行われている。

農薬散布の時は必ず農業技師の指導の下で必要に応じて散布を行っている。農場管理のモットーは自然保護を第一に考えている。常に新しい技術、品種、等の導入に注意をはらい栽培試験等を行い、日々研究に暇がない。この様な研究、努力によりセラード地域品評会 2012では 1位となった。

 

 

人物

Mario Pornaroはこの地方では優れたコーヒー栽培家として尊敬されている人物であるが、仕事熱心で家庭を愛し常に正直をモットーにして暮らしている普通の人柄である。

1952年ブラジルに移住し、真剣にコーヒー栽培に取組み、今日この地方では理想的なコーヒー農園を経営するまでに至った。穏やかな人柄の中には、何事にも恐れない不屈の精神を持つ人物である。

 

農園データ

農園名:esmeril maringa(エスメリール・マリンガ)

所在地:ミナスジェライス州・パトロシーニョ市(セラード地域・シャパドン地区)

面積:240ha.(コーヒー栽培160ha.)

標高:1,260m

栽培品種:ムンドノーボ・アカイア及びカツアイ

その他の農業:大豆、トウモロコシ

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