Carlos Akio Yamaguchi (山口カルロス・彰男)

セラード・コーヒーと山口カルロス彰男

今日、ミナス・ジェライス州セラード地区と言えば高品質のブラジルコーヒーの栽培地区として、国際的にも知られる様になっているが、今を去る40年昔を知る者にとってはこの様なブラジルコーヒーの一大生産地になるとは夢にも思わなかった地域であった。

その後約20年が立ち、初期のコーヒー栽培より高品質のコーヒー生産を目指しての栽培方法が始まった。そして、その後10年本格的に国際市場に進出すべく、日々努力が続けられて来た。

全ての成功の歴史には、その影で成功を目指して黙々と努力を続けていた人達の存在がある様に、セラードコーヒー生産地として又、高品質なコーヒーとして有名に至るまでにも数名の日本人開拓者達と、その子息が存在した。山口彰男もその一人であった。

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プロローグ

この物語は1955年頃の日本から始まる。当時の日本は未だ終戦の痛手を引きずり社会情勢は悪く、若者達の将来も望めない状態であった。彰男の父(節夫)は山口優(彰男の祖父)の9人兄弟の3男として育ち、仕事を求めて飛び立つ時期であった。節夫の父優はこの不況時の日本での息子の将来を考え、当時多少とも携わっていたブラジル移住奨励の仕事の関係を利用し、節夫に海外飛躍を進め、節夫も了解して1955年ブラジルに独身青年移住賭して渡伯したのである。当時、不況の日本を逃れ、新天地での生活を夢見て多くの移住者達がブラジル移住へと旅立って行ったが、将来の仕事に対する具体的な目標を立てての移住者は少なかった。

節夫は日本を旅立つ時すでにブラジルでの将来の設計を立て、移住後もその計画は変わる事無く続けられた。花卉栽培であった。

移住後最初に入植したところはサンパウロ近郊の花卉栽培者の農園であった。

カーネーション栽培に従事し,週2.3回、花束を抱えて、サンパウロ市場に通い販売に従事した。当時のブラジルは未だ花を飾る習慣も少なく、販売には大変苦労を重ねた。

 

5年後、日本の父達が決めた花嫁候補きみ子を呼び寄せて結婚した。当時日本人独身青年移住者達が試みていた、花嫁移民の先駆けであった。2年後、独立してサンパウロ近郊アチバイア市に土地を購入して移転、新生活が始まった。雨季に入ると道は泥沼化して家を出る事もできず又、電気、水道等も考えも及ばない状態であった。この様な環境下で山口家長男彰男は誕生した。彼の幼年時代はランプ生活で過ごしていた。父節夫は、日々花卉栽培に没頭し、栽培から販売までの忙しい日々を送っていた。

花卉栽培も次第に軌道に乗りかけた頃、節夫は周りの移住者達に呼びかけ、花卉栽培についての経営等について、説明し、多くの仲間を作って行った。又一方では日本より青年独身移住者達を呼び寄せ、自らの農場に入植させ花卉栽培の指導に当り、次々と青年たちを花卉栽培で独立させて行った。この様な父の背中を見て育った彰夫には既にその頃から父の血筋を受けついでいたのである。

 
 

 

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コーヒーとの出会い

 彰男14歳の時、勉学の為親元を離れて一人サンパウロ市内のアルモニア学生寮に入居し、そこから高校、大学へと通った。大学はサンベルナルド市のFEI(工業大学)の電子工学科で学び、1984年卒業後、当時流行りだしていたエレトロニクス関係の小さい会社を設立した。しかし一方では常に父の経営する農業関係への思いは心の中に残っていた。

父節夫が、ブラジル、日本に呼びかけて出資者を募りミナス・ジェライス州パラカツーに5.500ヘクタールの土地を購入し農場経営をすると云う大事業に乗り出した。道なき道をたどり,大草原の真っただ中での戦いが始まった。初期には大豆、米、トウモロコシ、等を栽培し、牛、豚を中心にした牧畜を行っていた。この時、日本から参加していた、前社長上原勇作氏を知り、以後意気投合して開拓に当たって行った。そして二人が将来この地でコーヒー栽培をすべし、との意見で一致していた。米や大豆は収穫して売るだけの単純な作物であるが、コーヒー産業は、大きな市場を有し、その栽培技術の研究による品質、趣向の向上、市場開発、輸出等々多くの可能性を有し、将来コーヒー外交による日本と友好関係を増大させたいと云う希望を持っていた。

 

コーヒー産業について

その当時ブラジルはコーヒー輸出国としてトップを誇っていたが、輸出量のみに走り、その品質は悪く、コロンビア、コスタリカ、エチオピア、等から高品質コーヒーを輸入していた日本には、ブラジルの高品質は趣向が合わなかった。この問題を解決すべく山口、上原の両名は、自らの農場ムンド・ノーボで生産されるコーヒーを日本でも通用する趣向を作るべく、スペシャルティーコーヒーの生産に努力を始めた。

彰男自身、日本で飲んだコーヒーとブラジルコーヒーとの趣向の差を体験し、ブラジルコーヒーの品質向上に貢献すべく決意し、1984年自らの会社を閉めて、パラカツーに馳せ参じた。

数年間にわたりコーヒー栽培に関する基礎を学び、それに基づいて自ら初めて栽培管理から収穫までの工程を経験した。収穫されたコーヒーの品質は今まで通りの好ましくない品物であった。

ブラジルでのコーヒー栽培の常識は、低コストで多収穫が、良しとされて来たが、これからの生産者は、品質管理、製品の趣向等にも研究をしてゆく必要性を感じた。父節夫、上原社長の薦めで、彰男はコーヒー鑑定士の資格を取るべく研修所に通い資格を獲得した。この期間に、コーヒーの品質、その趣向等多くのことを学んだ。栽培地、海抜、気候条件等の違いによりコーヒーの趣向も異なり、収穫時期によってもその味は変わるのであった。ムンド・ノーボ農場で収穫したコーヒーの味は、苦味を感じていたが、これも研究の結果、収穫時期が早く果実がまだ熟していない青実で収穫していたからであった。

この様に3人で暗中模索の中、少しずつ品質向上に近づいて行った。

当時は行われていなかった、果実脱皮(Washed)をする事で品質が向上する事を発見し、周りの仲間に奨励したが栽培業者、輸出入業者達からあまり賛同を得ず、むしろ反対意見を多く受けた。農場では1988年ピニャレンセ社の脱皮用機械を導入して収穫を行い、初めて良質のコーヒーの生産に成功した。この結果により、ブラジルコーヒーの日本輸出が増し、ブラジルコーヒー栽培者達を驚かせた。次に解決すべき問題は、ムンド・ノーボ農場に於ける年間の気候変動の問題であった。当地は夏高温多雨、冬低温少雨で有り、冬季の雨量のコントロールが問題とされた。この問題解決には父節夫の花卉栽培に於ける長年の経験から、冬季灌漑を施す事で、水不足の解消に至った。但し、1本の木に対する潅水量の決定には数年の日時を要した。

この試験による結果は50俵/haの収量が得られた。当時良い収穫量とされていたのが30俵/haが最高であったのと比べても、好結果が得られたと考えられた。この様な試験と努力が日本への輸出を増やして行った。 

 

 

 

セラード・コーヒー発展の歴史

1996年CACCER会長Aguinaldo José de Lima と知り合ってから、彰男のコーヒー産業に対する考え方が益々深さを増して行った。その頃Aguinaldoは CACCERの会長として、セラードコーヒーに品質保証制度を取り入れ地域のコーヒーの品質向上を図っていた。この考え方が彰男の考え方と同じ目的を目指しており、共に力を合わせて、セラード地区のコーヒー栽培農家に品質の向上の必要性を説き、技術指導に努めた。その後、二人はCERRADO

COFFEE DO BRASIL S.Aを設立した。このために費やした年月は1998年より2007年までの年月を掛けセラードコーヒーの品質向上に努めた。かって父節夫が花卉栽培普及の為移住者達にその技術を説いて回っていた様に、子息彰男も同様、スペシャルティコーヒー生産の為の技術を栽培者達に指導し、コーヒ生産に従事している会社の従業員にまで、その知識を教え、コーヒー鑑定士になるまでの技術を教授して行った。

この様な努力が日本への輸出力を増し、ILLYへの販売を可能にして行った。

今日のセラード・コーヒの国際市場に於ける、揺るぎない品質を作り上げたのである。

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Supechality Coffee

2002年アメリカのAnaheimで開催されたコーヒーの国際博覧会を訪ねた折。旧友のChristian Wolthersに再開した。彼はこの博覧会の開催主であるSCAAの副会長を務めていた。この出会いで彰男のコーヒーに対する考え方が益々深くなり、彼の紹介でSCAAの技術担当重役であるMané Alvesから話を聞くことが出来た。彼は世界的に有名なコーヒー関係の権威であり、現在SCAAで、自分が作り出した新しい選別方法Cupping Judgeについて語ってくれた。

今日までブラジルで行われているコーヒー選別方法は、出された製品の悪い箇所のみを探して選別に当たっているが、Cupping Judgeでの方法によると、悪い点、良い点を共に探し出し、それによって選別されるのである。この方法は2004年より、彰男、上原氏によりブラジル、日本で取り入れるべく指導を始めている。日本ではMané Alvesも来日し直接日本のコーヒー業者達に指導している。この様な交流により彰男、上原社長の協力でSCAAのスペシャルティコーヒーの日本市場への進出に協力した。又、UTZが日本市場に進出できたのも、Christian,彰男、上原達の紹介によるものであった。

この様に世界のコーヒー鑑定の指導者たちの指導により日本コーヒー業界は益々その品質等に厳しい目を向ける様になった。

2007年共にセラードコーヒー発展の為に働き、そして師事してきた上原勇作社長が亡くなられた。その後引き継ぎの為に2代目社長となった上原康充氏が残務整理に一段落つくと、次期社長への推薦を受けた彰男は、悩んだ。未だ日本語の読み書きの十分でない上に、日本に於けるコーヒー市場についての認識も浅く、不安があった。しかし、次期社長就任を決断させたのは、生前上原社長より多くの日本国内のコーヒー業者を紹介されていたその方々の後押しが彰男を決断させたのであった。就任後、今日まで次第に日本人に慣れ、その習慣、考え方等を覚えるべく努力してきたが,ブラジルで生を受けた事実は否定できず、物の考え方等で異なる時、自分は外国人である事を感じている。しかし、既に船は動き出している。社長としての責務遂行とブラジルのコーヒー市場と日本のコーヒー市場の発展の為に全力を尽くしていく覚悟である。

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