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商品紹介

  • Hermes José Marques de Medeiros

    マイクロロット2015マイクロロット

    エスピリット・サントス州とミナス・ジェライス州の州境に位置する、大きな渓谷と山々に囲まれたカパラオ山脈の中、フォルキーリャ・ド・リオと呼ばれる小さな集落がある。何十年も前、この渓谷はまさに誰も住まない所であったが、ある先駆者が、農場を切り拓く為にやって来た。この先駆者である祖先達は、その地域では伝統的な4家族へとなった。そして今日、その地で彼らの子孫は生活し、婚姻を重ね、大きな家族を形成していった

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  • Afonso Donizete Lacerda

    マイクロロット2015マイクロロット

    生産者のアフォンソ・ドニゼッテ・アブレウ・デ・ラセルダは、ミナス・ジェライス州との境に接するエスピリト・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に所在するフォルキーリア・ド・リオと言う集落で、古から知られているラセルダ家の一人のメンバーある。彼はそこで生まれ育った。

    Jose Alexandre Lacerda(ジョゼ・アレッシャンドレ・ラセルダ)は兄弟であり、他のロットで生産者として紹介しており、厳密には農園内を区画分けしているが、基本的に一緒に経営している。

    彼の高祖父はポルトガル人で、ポルトガルからエスピリト・サント州ヴィトーリア港を経由し6ヶ月の旅を経てブラジルのフォルキーリア・ド・リオに辿り着いた。現地で生まれ育った彼の高祖母と結婚し、今日のラセルダ家が在る。

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  • Edison Abreu Olibeira

    マイクロロット2015マイクロロット

    エジーニョとして知られる、エジソン・アブレウ・オリベイラは、ミナス・ジェライス州とエスピリット・サント州の州境に位置する、標高の高い山脈、セーハ・カパラオ地域のコーヒー生産者である。

    エジーニョは1989年12月12日生れ。同山脈の中で丘陵の拡がるフォルキーリャ・ド・リオ集落に古から居る4家族の一員である。

    彼の家族の苗字アブレウは、高祖父の父親から始まった。高祖父の父親はポルトガルで生まれで、リオデジャネイロ州のカンタガーロ経由でブラジルへやって来た。自由になる自分の土地を求め、ポルトガルから、エスピリット・サントス州を目指しての長い旅であった。彼は結婚し、やがて彼が農場を拓くことになるフォルキーリャ・ド・リオ集落に移り住んだ。

    一族に於いてコーヒー栽培は、ほぼ1世紀となり、曽祖父が今と同じ場所でコーヒー栽培を始めた。

    当時、農場の状況は今とは異なっていた。生産の手助けをする機械や技術も無く、まさに手作業であった。それゆえ生産されていたコーヒーの品質も、非常に低かった。そして家庭内で消費しきれなった分を近隣の町で、物々交換したり、売ったりしていた。街道もなくフォルキーリャの生活は非常に孤立していた。商品はロバの背中に載せられ町まで運ばれていたが、その道のりは1日がかりか、それ以上であった。

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  • Ronaldo Gonçalves Lacerda

    マイクロロット2015マイクロロット

    生産者ロナルド・ゴンサルベス・ラセルダは、ラセルダ家の一員で、フォルキーリャ・ド・リオ集落で生まれ育った。

    その小さな集落は、カパラオ山脈という、エスピリット・サント州とミナス・ジェライス州の州境の山脈にある。

    三世代から四世代以前の先駆者である彼の先祖が、フォルキーリャにやって来て、この地域で農耕と農場開発を始めた。

    ロナルドの父方の高祖父はポルトガル人で、エスピリト・サント州ヴィトーリア港を経由しフォルキーリアまで、ポルトガルから6ヶ月の旅を経てブラジルに来た。ここで、現地生まれの彼の高祖母と結婚し、ラセルダ家が誕生した。

    ロナルドの母方の曾祖父母は、祖父が8歳の時にイタリアからブラジルにやって来た。

    航海途中に船が難破しかけた時のこと、彼の曾祖父は、旅で生き延びブラジルで成功したらノッサ・セニョーラ・ダ・アヌンシアッタと言う名前の教会を建てることを誓ったとのエピソードを、ロナルドは語る。

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  • Afonso Donizete Lacerda

    マイクロロット2015マイクロロット

    生産者のアフォンソ・ドニゼッテ・アブレウ・デ・ラセルダは、ミナス・ジェライス州との境に接するエスピリト・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に所在するフォルキーリア・ド・リオと言う集落で、古から知られているラセルダ家の一人のメンバーある。彼はそこで生まれ育った。

    Jose Alexandre Lacerda(ジョゼ・アレッシャンドレ・ラセルダ)は兄弟であり、他のロットで生産者として紹介しており、厳密には農園内を区画分けしているが、基本的に一緒に経営している。

    彼の高祖父はポルトガル人で、ポルトガルからエスピリト・サント州ヴィトーリア港を経由し6ヶ月の旅を経てブラジルのフォルキーリア・ド・リオに辿り着いた。現地で生まれ育った彼の高祖母と結婚し、今日のラセルダ家が在る。

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  • Paulo Cesar Fernandes

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    パウロ・セーゼル・フェルナンデスは1972年生まれで、彼の祖先が3代に渡り生活してきたミナス・ジェライス州エスペイラ・フェリス市に位置するサン・ドミンゴスと呼ばれる集落で育ち、生活してきた。多くのブラジル人同様、彼は人種や国籍が混ざりあった子孫である。母方の一人の曽祖父が黒人で、プリ族のインディオの女性と結婚し、その絆があることを彼は思い出す。インディオとの混血児である祖父は移民の娘であるイタリア人と結婚した。父方は曾祖母の代からイタリア人とポルトガル人であった。そして一族は、今パウロの所有地でとなっている今回の話題に取り上げている土地を一族は購入し、100年以上に渡り暮らしている。彼の父方の祖父アントニオ・ルイス・フェルナンデスは、地域の農場開発を試すために、僅かな量のコーヒー栽培を始めた。コーヒーは、まさに手作業で地域内のみ売れられていた。以前、地域には街道もなく、牛車すら通らなかった。移動は、徒歩で小道を通っていた。パウロの幼年時代、エスペイラ・フェリスの町は小さな村で、何かの製品を売るためには、背に荷物積んだ家畜を引き、8時に其処へ着くのに朝の2時に出発しなければならなかった。少し大きな町グアスイーまでは、およそ3日間の旅であった。この様に集落外へコーヒーを販売するために持って行くことは容易ではなかった。しかし、地元で販売されるだけで高値でもなかったが、一風変わった価値のある製品として見られていた。なぜならば当時その地域で、ほとんどコーヒーの生産が無かったからである。

    初めの頃、パウロの祖父は僅かに家計を賄うために栽培していたが、年を追うごとに人々がコーヒーの購入に興味を持つにつれ、農場での生産を増やしていった。

    パウロの父が、より良い生活を志向し、コーヒーの生産拡大を始めた人であった。その当時、コーヒーの入った袋は良い値段なったが、今日の価格からすれば、まだ非常に安かった。

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  • Jose Adalto de Abreu

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    ジョゼ・アダルト・デ・アブレウは、皆にはタオとして知られている。1972年1月2日生まれで、エスピリット・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に位置するフォルキーリャア・ド・リオの集落における古くからの家族の一員である。父方の曽祖マノエル・マルケス・デ・アブレウは、ポルトガルに生まれ、若いときリオ・デ・ジャネイロ州のカンタゴーラに到着し、ブラジルにやって来た。経緯は軍役に付きたくなかったのと、移住者として働きたかった為であった。自分自身で所有できる自由な土地を求めエスピリット・サント州を目指し、リオデジャネイロ州から長い旅についた。彼の最初の農場は、タオが今日住んでいる集落に近いサン・ドミンゴスに位置していた。タオの曾祖母のマリア・ジョアナ・デ・アマラウと結婚しフォルキーリャ・ド・リオに引っ越した。母方の経歴は少なく、タオが思い返すは8歳の時に孤児となりミナスジェライス州ヴァルジェン・アレグレの叔母の家で育てられた祖父のみのことを覚えている。何年か後、彼は結婚し、またフォルキーリャ・ド・リオ集落に引っ越し、そこで家庭を構えた。その後、タオ自身と同様に両親はフォルキーリャ・ド・リオで生まれ育った。彼は自分意思で、この地域から一度も出たことは無い。

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  • Jose Adalto de Abreu

    マイクロロット2015マイクロロット

    ジョジマール・ラモス・プロタージオは、エスピリット・サント州とミナス・ジェライス州の州境に位置する山岳地帯の中にあるカパラオ山脈のスペシャリティ・コーヒー生産者である。

    エスピリット・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に位置するフォルキーリャア・ド・リオの集落における古くからの五家族の一員である。彼の曽祖父は同集落の先駆者で、その地域に畠も隣人も居ない原生林であった時に彼は到着した。農場が安定してきたころ、農地の規模も広くなり、一家の主な収入源は畜産であった。農場でコーヒー栽培を始めたのは、彼の父親の父、祖父シッキーニョであった。しかしながら、当時、交通手段や街道もなく、細道を徒歩か牛車で移動せねばならず、まだコーヒーを売ることは難しかった。コーヒーは、彼の父親ジョゼ・オメロの栽培を経て、コーヒーの世界へ飛び込んだジョジマールへと、代々受け継がれた。彼の父親の当時、コーヒーの畝間も含め、まだ沢山のタマネギを植えていたが、タマネギの市場での価格が安いことから、時を経て、タマネギはコーヒーに転換されていった。

    青年の時からジョジマールは畠で働いた。そして時間の経過と共にコーヒーの栽培や販売の状況は、非常に変化し良くなっていると語る。最初の頃は、非常に手作業が多く、骨が折れた。コーヒーの木から粒をもぎ取り、少し後に熊手を使い、手作業で土の上の粒を集めていた。コーヒーの袋は、畠から乾燥場まで、山腹の坂を下って運ばれていた。仕事が多いが、結局のところ価格は安かった。地域でのバイヤー不足により、コーヒーは廉価で売られていたし、悪いコーヒーとクオリティー・コーヒーの間に何らの値差もなかった。時が過ぎ、多くのバイヤーが訪れ始め、販売価格は改善してきたので、一家は設備を整えていった。当地域の生産者達は、市場や等級分に関して、より情報を得られる様になった

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  • Manoel Protazio de Abreu

    マイクロロット2015マイクロロット

    マノエル・プロタージオ・デ・アブレウは、エスピリット・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に位置するフォルキーリャア・ド・リオの集落に古くからある五家族の内の一家族である。彼の父方の祖父は、ポルトガル人でマノエルといい、彼と同じ名前であった。

    マノエル・サルバドール・プロタージオ・デ・アブレウ祖父さんは1900年生まれで、若い時、ポルトガルからリオ・デ・ジャネイロ州のカンタガーロに着き、ブラジルにやって来た。自分自身で所有できる自由な土地を求めエスピリット・サント州を目指し、カンタガーロを発ち長い旅についた。今日プロタージオ家が定住する所有地があり、現地生れのマリア祖母さんと知り合い結婚することになるフォルキーリャア・ド・リオの集落で、彼の旅を終えた。何年か後、彼の両親は、マノエル本人と同様にフォルキーリャア・ド・リオで生まれ、そして育った。

    一族のコーヒー栽培は、ほぼ一世紀に及ぶ。1925年頃、マノエルの祖父母は、森林を斧で切り拓き、そこでコーヒーの栽培を始めた。その当時の農場の事情は異なっており、コーヒーであれ全ては自家使用のために植付けられていた。外界とは非情に孤立して生活しており、その村落以外への商品の売り買いは難しかった。当時その場所には電気もなく、唯一農場の外で求めたものは、塩と軽油であった。彼の祖父は、彼らが住んでいた所から牛車で一日がかりの場所にあった鉄道の駅へ、それらの商品を手に入れるために行っていたとマノエルは語る。

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  • José Alexandre Abreu de Lacerda

    マイクロロット2015マイクロロット

    生産者のジョゼー・アレシャンドレ・デ・アブレウ・デ・ラセルダは、ミナス・ジェライスス州との境に接するエスピリト・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に所在するフォルキーリア・ド・リオと言う集落で、古から知られているラセルダ家の一人のメンバーである。彼はそこで生まれ育った。

    Afonso Donizete Lacerda(アフォンソ・デニゼッチ・ラセルダは兄弟であり、他のロットで生産者として紹介しており、厳密には農園内を区画分けしているが、基本的に一緒に経営している。

    彼の高祖父はポルトガル人で、ポルトガルからエスピリト・サント州ヴィトーリア港を経由し6ヶ月の旅を経てブラジルのフォルキーリア・ド・リオに辿り着いた。現地で生まれ育った彼の高祖母と結婚し、今日のラセルダ家が在る。

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