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商品紹介

  • Ronaldo Gonçalves Lacerda

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    生産者ロナルド・ゴンサルベス・ラセルダは、ラセルダ家の一員で、フォルキーリャ・ド・リオ集落で生まれ育った。

    その小さな集落は、カパラオ山脈という、エスピリット・サント州とミナス・ジェライス州の州境の山脈にある。

    三世代から四世代以前の先駆者である彼の先祖が、フォルキーリャにやって来て、この地域で農耕と農場開発を始めた。

    ロナルドの父方の高祖父はポルトガル人で、エスピリト・サント州ヴィトーリア港を経由しフォルキーリアまで、ポルトガルから6ヶ月の旅を経てブラジルに来た。ここで、現地生まれの彼の高祖母と結婚し、ラセルダ家が誕生した。

    ロナルドの母方の曾祖父母は、祖父が8歳の時にイタリアからブラジルにやって来た。

    航海途中に船が難破しかけた時のこと、彼の曾祖父は、旅で生き延びブラジルで成功したらノッサ・セニョーラ・ダ・アヌンシアッタと言う名前の教会を建てることを誓ったとのエピソードを、ロナルドは語る。

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  • Edison Abreu Olibeira

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    エジーニョとして知られる、エジソン・アブレウ・オリベイラは、ミナス・ジェライス州とエスピリット・サント州の州境に位置する、標高の高い山脈、セーハ・カパラオ地域のコーヒー生産者である。

    エジーニョは1989年12月12日生れ。同山脈の中で丘陵の拡がるフォルキーリャ・ド・リオ集落に古から居る4家族の一員である。

    彼の家族の苗字アブレウは、高祖父の父親から始まった。高祖父の父親はポルトガルで生まれで、リオデジャネイロ州のカンタガーロ経由でブラジルへやって来た。自由になる自分の土地を求め、ポルトガルから、エスピリット・サントス州を目指しての長い旅であった。彼は結婚し、やがて彼が農場を拓くことになるフォルキーリャ・ド・リオ集落に移り住んだ。

    一族に於いてコーヒー栽培は、ほぼ1世紀となり、曽祖父が今と同じ場所でコーヒー栽培を始めた。

    当時、農場の状況は今とは異なっていた。生産の手助けをする機械や技術も無く、まさに手作業であった。それゆえ生産されていたコーヒーの品質も、非常に低かった。そして家庭内で消費しきれなった分を近隣の町で、物々交換したり、売ったりしていた。街道もなくフォルキーリャの生活は非常に孤立していた。商品はロバの背中に載せられ町まで運ばれていたが、その道のりは1日がかりか、それ以上であった。

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  • Jose Adalto de Abreu

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    ジョゼ・アダルト・デ・アブレウは、皆にはタオとして知られている。1972年1月2日生まれで、エスピリット・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に位置するフォルキーリャア・ド・リオの集落における古くからの家族の一員である。父方の曽祖マノエル・マルケス・デ・アブレウは、ポルトガルに生まれ、若いときリオ・デ・ジャネイロ州のカンタゴーラに到着し、ブラジルにやって来た。経緯は軍役に付きたくなかったのと、移住者として働きたかった為であった。自分自身で所有できる自由な土地を求めエスピリット・サント州を目指し、リオデジャネイロ州から長い旅についた。彼の最初の農場は、タオが今日住んでいる集落に近いサン・ドミンゴスに位置していた。タオの曾祖母のマリア・ジョアナ・デ・アマラウと結婚しフォルキーリャ・ド・リオに引っ越した。母方の経歴は少なく、タオが思い返すは8歳の時に孤児となりミナスジェライス州ヴァルジェン・アレグレの叔母の家で育てられた祖父のみのことを覚えている。何年か後、彼は結婚し、またフォルキーリャ・ド・リオ集落に引っ越し、そこで家庭を構えた。その後、タオ自身と同様に両親はフォルキーリャ・ド・リオで生まれ育った。彼は自分意思で、この地域から一度も出たことは無い。

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  • Manoel Protazio de Abreu

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    マノエル・プロタージオ・デ・アブレウは、エスピリット・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に位置するフォルキーリャア・ド・リオの集落に古くからある五家族の内の一家族である。彼の父方の祖父は、ポルトガル人でマノエルといい、彼と同じ名前であった。

    マノエル・サルバドール・プロタージオ・デ・アブレウ祖父さんは1900年生まれで、若い時、ポルトガルからリオ・デ・ジャネイロ州のカンタガーロに着き、ブラジルにやって来た。自分自身で所有できる自由な土地を求めエスピリット・サント州を目指し、カンタガーロを発ち長い旅についた。今日プロタージオ家が定住する所有地があり、現地生れのマリア祖母さんと知り合い結婚することになるフォルキーリャア・ド・リオの集落で、彼の旅を終えた。何年か後、彼の両親は、マノエル本人と同様にフォルキーリャア・ド・リオで生まれ、そして育った。

    一族のコーヒー栽培は、ほぼ一世紀に及ぶ。1925年頃、マノエルの祖父母は、森林を斧で切り拓き、そこでコーヒーの栽培を始めた。その当時の農場の事情は異なっており、コーヒーであれ全ては自家使用のために植付けられていた。外界とは非情に孤立して生活しており、その村落以外への商品の売り買いは難しかった。当時その場所には電気もなく、唯一農場の外で求めたものは、塩と軽油であった。彼の祖父は、彼らが住んでいた所から牛車で一日がかりの場所にあった鉄道の駅へ、それらの商品を手に入れるために行っていたとマノエルは語る。

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  • Fábio Protázio de Abreu nasceu

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    ファビオ・プロタージオ・デ・アブレウは、1980年12月生まれの、エスピリット・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に位置するフォルキーリャア・ド・リオの集落における古くからの五家族の子孫である。

    彼の父方の曽祖父は、ちょうど1900年にポルトガル生まれた。若い時、リオ・デ・ジャネイロ州のカンタガーロに着き、ブラジルにやって来た。自分自身で所有でき自由になる土地を求めエスピリット・サント州を目指し、そこ【カンタガーロ】を発ち長い旅につき、今日プロタージオ家が住み、現地生れの曾祖母マリアと知り合い結婚することになるフォルキーリャア・ド・リオの集落で彼の旅を終えた。何年の後、フォルキーリャア・ド・リオで、ファビオと同様に、祖父母や両親は生れ、そして育った。

    一族の中でコーヒー栽培は1世紀近くになる。ファビオの曽祖父は1925年頃、斧で森林を切り拓き、そこでコーヒーの生産を始めた。その当時の農場の事情は【現在と】異なっており、コーヒーであれ全ては自家使用のために植付けられていた。外界とは非情に孤立して生活していたし、集落の外への商品の売り買いは難しかった。当時その場所には電気もなく、唯一農場の外で求めたものは、塩と灯油であった。ファビオの曽祖父は、これらの商品を取りに、彼の家族の住むところから1日かかる鉄道駅まで牛車で行っていた。

    ファビオの青年当時、当地では、仕事に対する多くの選択の余地はなかったし、なにしろ彼は町へは行きたくはなかったし、それをするにも金銭的な余裕がなかった。より良い選択肢はコーヒーで働くことであり、ファビオが従事し始めた。彼は、2つのことを掛け持ち、多難の時を過ごしたと語る。なぜなら日中を通して畠で働かなければならなかったし、その後、夜に勉強していたからである。ファビオは夜遅く家に帰り、働く為に早朝に起き、非常に忙しかったが、した価値はあった。

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  • Sebastiana de Oliveira Faria

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    セバスチアーナさんは、1947年に生まれで、ミナス・ジェライス州エスペイラ・フェリス市に位置するサン・ドミンゴスと呼ばれる集落で育ち、生活してきた。彼女のフルネームはセバスチアーナ・デ・オリベイラ・ファリアであるが、皆にレレナと呼ばれている。

    “オリベイラ”は、サン・ドミンゴスで生まれたブラジル人を祖先とするセバスチアーナの祖父も含めた彼の父方の苗字である。彼女の祖父イダリノは、トロペイロ【馬車などを使い集団で荷物を運ぶ業者】で、レオポルヂーナの街の鉄道駅から“ペドラ・メニーナ・シャーベ”と呼ばれる地方の駅まで商品を運んでいた。

    “ファリア”の名は母方からきており、レレナが言うには、曽祖母がそうであったようにインディアンのプリ族に祖先を持つ。このインディアン【の血統】は曽祖父により、ファリア一家に受け継がれた。ファリア一族はリオデジャネイロ州のナチビダージと呼ばれる町で生活し、レレナの祖父母は、そこにサトウキビの製糖工場を持っていた。その後、彼らは、より良い生活と、より涼しい気候を求めて、サン・ドミンゴスへ移った。コーヒー栽培を前提とし、その地域に一つの農場を買い、コーヒーを植え始めた。

    当時、“café de gaveta” と呼ばれる方法で植え付けられていた。コーヒー栽培は当地域で始まったばかりなので、植え付けの苗から家族によって作らなければならなかった。既に一家が植えていたコーヒーの樹から採った一握りの種を播くために穴を掘り、“gaveta(=引出し)”の中で発芽するまで、穴は藁で覆われていた。苗にまで育てられていた。

    以前は、農場内に植えられていたものは、コーヒーしかり、全てが家内消費用であった。非常に孤立して生活し、移動は歩くか牛車で、僅かな細道程度で、街道は無かった その為に全ての食糧は自給自足であった。米、豆、肉は農場内からであったが、僅かに発電のための軽油と塩を外部から求めなければならず、レレナと彼女の母は、これらの商品を一日がかりで町まで買い出しに行っていた。レレナの父は非常に活発で働き者であったが、片足を失っており、いくらかの制限があった。そのため、息子たちの助けを借り、代わりに農場を切り盛りしていたのは彼女の母であった。

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  • Everaldo Protázio de Oliveira

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    エヴェラルド・プロタージオ・デ・オリベイラは、エスピリット・サント州とミナス・ジェライス州の州境に位置する山岳地帯の中にあるカパラオ山脈のスペシャリティ・コーヒー生産者である。彼は森林とコーヒー園が連なる風景が見られる谷間の中のフォルキーリャ・ド・リオと呼ばれる小さな集落で生まれた。母方の祖先は、この地域か近辺で生まれ、父方の祖先はイタリアから来た移民たちであった。イタリア人の彼の曽祖父は、フォルキーリャ・ド・リオに来て、この地域では珍しく今も残る、その当時に建てられた大邸宅のある、ヴィラ・ジャヌアリアと呼ばれる農園を後に拓いた。

    トウモロコシやインゲン豆の栽培や畜産を営む中で、エヴェラルドの祖父は、既にコーヒーを栽培していた。当時の販売価格は非常に安く、僅かながら収入の足しになる程度であった。エヴェラルド一家の所有地の場所の都合より、コーヒーは地域のより低い場所に植えられ、僅かコーヒーが高い場所に移された。最初、同地域のコーヒーの木は僅かであったし、新植の為の苗も無かった。畠は植付を行う場所に“gavetas【=引出し】”と呼ばれる穴を掘って種を入れ、藁で覆う“café de gaveta【=引出しのコーヒー】”という方法で、徐々に広げられていった。発芽するのは僅かであったが、このように同地域で畠が広がっていった。

    植付は低地から丘の上へと移動されていった。これに伴い同地域に、外部からのバイヤーが徐々に訪れる様になった。それにつれ、以前は何時間もかけ牛車で近隣のちっぽけな町まで運ばなければなかったコーヒーの販売が一層容易になった。同地域の供給の増加とバイヤーの到来ともにコーヒーの価値が向上してきた。しかしエヴェラルドは、コーヒー相場の乱高下により大きな危機に直面したこともあると言う。80年の終わりごろ相場は突然下落し、一夜が明けて10分の1になったこともある。貸付金利は非常高くなり、結果としてエヴェラルドはその後5年間、借金の返済の為だけに働くという、この危機の被害を受けた。

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  • Jose Emilio Magro Joia da Forquilha農園

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    田舎を離れ都会に移り住む人々についての多くの話しを私たちは知っている。

    しかし、その逆のことも当然ある。都会で生まれ育ち、色々な理由で田舎へと向かう人々もいる。コーヒー生産者ジョゼ・エミリオ・マグロ(José Emílio Magro)もその一人である。

    1954年、彼はミナス・ジェライス州の地方の町カランゴーラに生まれた。彼の今まで、色々な都会の街に住んんだ。この田舎町を出て、エスピリットサント州の首都ヴィットリア、リオデジャネイロ、果ては遠く離れたアクレ州のリオブランコと。

    ゼ・エミリオ(=彼の愛称)は、大学に入るためヴィットリアへ行き、医師となった。その後、アクレ州で医業に従事する。

    アクレ全域の労働者の健康と安全管理を目的に開設された診療所で、彼は医師となった。また彼はそこで最初の結婚をし、ルドミラという名の娘を授かった。

    何年か後、ヴィットリアに引っ越し、定年まで働いた。そこでは、現在の妻であるエリエルシ・ダ・クーニャ・マグロと改めて結婚した。

    今、彼は一方の軸足を町に於き、もう一方の軸足を畠に置く。

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  • Jozimar Ramos Protázio

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    ジョジマール・ラモス・プロタージオは、エスピリット・サント州とミナス・ジェライス州の州境に位置する山岳地帯の中にあるカパラオ山脈のスペシャリティ・コーヒー生産者である。

    エスピリット・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に位置するフォルキーリャア・ド・リオの集落における古くからの五家族の一員である。彼の曽祖父は同集落の先駆者で、その地域に畠も隣人も居ない原生林であった時に彼は到着した。農場が安定してきたころ、農地の規模も広くなり、一家の主な収入源は畜産であった。農場でコーヒー栽培を始めたのは、彼の父親の父、祖父シッキーニョであった。しかしながら、当時、交通手段や街道もなく、細道を徒歩か牛車で移動せねばならず、まだコーヒーを売ることは難しかった。コーヒーは、彼の父親ジョゼ・オメロの栽培を経て、コーヒーの世界へ飛び込んだジョジマールへと、代々受け継がれた。彼の父親の当時、コーヒーの畝間も含め、まだ沢山のタマネギを植えていたが、タマネギの市場での価格が安いことから、時を経て、タマネギはコーヒーに転換されていった。

    青年の時からジョジマールは畠で働いた。そして時間の経過と共にコーヒーの栽培や販売の状況は、非常に変化し良くなっていると語る。最初の頃は、非常に手作業が多く、骨が折れた。コーヒーの木から粒をもぎ取り、少し後に熊手を使い、手作業で土の上の粒を集めていた。コーヒーの袋は、畠から乾燥場まで、山腹の坂を下って運ばれていた。仕事が多いが、結局のところ価格は安かった。地域でのバイヤー不足により、コーヒーは廉価で売られていたし、悪いコーヒーとクオリティー・コーヒーの間に何らの値差もなかった。時が過ぎ、多くのバイヤーが訪れ始め、販売価格は改善してきたので、一家は設備を整えていった。当地域の生産者達は、市場や等級分に関して、より情報を得られる様になった。

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  • Fábio Rubio Sabino

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    ファビオ・ルビオ・サビノは、ミナス・ジェライス州エスペーロ・フェリス市にある集落サン・ドミンゴスで生まれ育った。1991年生まれのコーヒー栽培に従事する青年で、25歳の時に最初のスペシャルティ・コーヒーの収穫を成し遂げた。

    彼のファミリーは、祖先がブラジル系とヨーロッパ系移民である。曾祖父母の中でも、1人の曾祖母はブラジル人でファビオが今住んでいる同じ所で生まれ、1人の曾祖父はインデアンであった。他の曾祖父母達は、ヨーロッパ人でブラジルへ移民したポルトガル人、スペイン人とイタリア人で、その一部は第一次世界大戦から逃れてきた移民である。コーヒー栽培はおよそ70年前、祖父オスマールと共に曾祖父母の代から既に始めていた。オスマール爺さんは、軍人であったが、20歳の時、コーヒーを栽培する為に軍隊を後にした。ファビオの両親は、コーヒー栽培を継ぎ、ファビオもまた後を継いだ。

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