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商品紹介

  • Jose Emilio Magro Joia da Forquilha農園

    マイクロロット2017マイクロロット

    田舎を離れ都会に移り住む人々についての多くの話しを私たちは知っている。

    しかし、その逆のことも当然ある。
    都会で生まれ育ち、色々な理由で田舎へと向かう人々もいる。
    コーヒー生産者ジョゼ・エミリオ・マグロ(José Emílio Magro)もその一人である。

    1954年、彼はミナス・ジェライス州の地方の町カランゴーラに生まれた。
    彼の今まで、色々な都会の街に住んんだ。この田舎町を出て、エスピリットサント州の首都ヴィットリア、リオデジャネイロ、果ては遠く離れたアクレ州のリオブランコと。

    ゼ・エミリオ(=彼の愛称)は、大学に入るためヴィットリアへ行き、医師となった。
    その後、アクレ州で医業に従事する。

    アクレ全域の労働者の健康と安全管理を目的に開設された診療所で、彼は医師となった。
    また彼はそこで最初の結婚をし、ルドミラという名の娘を授かった。

    何年か後、ヴィットリアに引っ越し、定年まで働いた。
    そこでは、現在の妻であるエリエルシ・ダ・クーニャ・マグロと改めて結婚した。

    今、彼は一方の軸足を町に於き、もう一方の軸足を畠に置く。

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  • Manoel Protazio de Abreu

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    マノエル・プロタージオ・デ・アブレウは、エスピリット・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に位置するフォルキーリャア・ド・リオの集落に古くからある五家族の内の一家族である。
    彼の父方の祖父は、ポルトガル人でマノエルといい、彼と同じ名前であった。

    マノエル・サルバドール・プロタージオ・デ・アブレウ祖父さんは1900年生まれで、若い時、ポルトガルからリオ・デ・ジャネイロ州のカンタガーロに着き、ブラジルにやって来た。
    自分自身で所有できる自由な土地を求めエスピリット・サント州を目指し、カンタガーロを発ち長い旅についた。
    今日プロタージオ家が定住する所有地があり、現地生れのマリア祖母さんと知り合い結婚することになるフォルキーリャア・ド・リオの集落で、彼の旅を終えた。何年か後、彼の両親は、マノエル本人と同様にフォルキーリャア・ド・リオで生まれ、そして育った。

    一族のコーヒー栽培は、ほぼ一世紀に及ぶ。
    1925年頃、マノエルの祖父母は、森林を斧で切り拓き、そこでコーヒーの栽培を始めた。
    その当時の農場の事情は異なっており、コーヒーであれ全ては自家使用のために植付けられていた。
    外界とは非情に孤立して生活しており、その村落以外への商品の売り買いは難しかった。
    当時その場所には電気もなく、唯一農場の外で求めたものは、塩と軽油であった。
    彼の祖父は、彼らが住んでいた所から牛車で一日がかりの場所にあった鉄道の駅へ、それらの商品を手に入れるために行っていたとマノエルは語る。

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  • Ronaldo Gonçalves Lacerda

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    生産者ロナルド・ゴンサルベス・ラセルダは、ラセルダ家の一員で、フォルキーリャ・ド・リオ集落で生まれ育った。

    その小さな集落は、カパラオ山脈という、エスピリット・サント州とミナス・ジェライス州の州境の山脈にある。

    三世代から四世代以前の先駆者である彼の先祖が、フォルキーリャにやって来て、この地域で農耕と農場開発を始めた。

    ロナルドの父方の高祖父はポルトガル人で、エスピリト・サント州ヴィトーリア港を経由しフォルキーリアまで、ポルトガルから6ヶ月の旅を経てブラジルに来た。
    ここで、現地生まれの彼の高祖母と結婚し、ラセルダ家が誕生した。

    ロナルドの母方の曾祖父母は、祖父が8歳の時にイタリアからブラジルにやって来た。

    航海途中に船が難破しかけた時のこと、彼の曾祖父は、旅で生き延びブラジルで成功したらノッサ・セニョーラ・ダ・アヌンシアッタと言う名前の教会を建てることを誓ったとのエピソードを、ロナルドは語る。

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  • Manoel Salvador Protázio de Abreu

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    マノエル・サルバドール・プロタージオ・デ・アブレウは、ネウ【の愛称】で知られている。
    1976年7月11日生まれの39歳、エスピリット・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に位置するフォルキーリャア・ド・リオの集落における古くからの五家族の一員である。

    彼の名前は、父方の祖父マノエル・サルバドール・プロタージオ・デ・アブレウ爺さんに因んでいる。
    マノエル爺さんはポルトガル生まれで、若い時、リオ・デ・ジャネイロ州のカンタガーロに着き、ブラジルにやって来た。
    自分自身で所有できる自由な土地を求めエスピリット・サント州を目指し、そこ【カンタガーロ】を発ち長い旅についた。
    フォルキーリャア・ド・リオの集落で彼の旅を終え、現地生れのマリア・ジョアナ・デ・アマラル婆さんと結婚し、森林地帯に住むことになった。
    住んでいた家は、その地域で伐採された木材で建てられ、家の敷地内や地域の道などで野生動物と出くわすことが当たり前であったと、ネウは語る。
    フォルキーリャア・ド・リオで何年の後、ネウと同様に、ネルの両親は生まれ育った。

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  • Nilton Gonçalves de Carvalho

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    ニウトン・ゴンサウヴェス・デ・カルバーリョは、今クオリティー・コーヒーを栽培している彼の農園からそれ程遠くないジヴィーノ・デ・カランゴーラで生まれた。
    ニウトンは、彼の家族と共にジヴィーノの隣町のサン・ドミンゴスと言う小さな村に遊びに来ていた。
    彼が寝泊まりしていたサン・ドミンゴスにある農場の地主に薦められ、2003年の終わりごろ、その中の一部の土地を買う決意をした。

    サン・ドミンゴスは水が豊富な上、土地も肥沃で、害虫もいなかった。
    その他にも面白味のない歩合制での生活にニウトンが見切りをつけるのに良い機会でもあった。
    その結果として、家財道具を持って引っ越した。

    彼の両親や祖父母もまた、町から近いその地域で生まれた。
    父方の家族はマニュサウ出身で、ニウトンはマニャサウでの子供の頃、彼と彼の兄弟は、小さな缶でコーヒーを収穫しに行っていたことを覚えている。
    彼らはコーヒーを 臼で潰して、岩の上において乾燥させていた。
    学校へ行く前や終わった後に飲むため、そのような方法でコーヒーを作っていた。
    でも彼の両親は、祖父母同様に家庭内で飲用するのみにコーヒーを生産していた。
    収入源や仕事としてコーヒー栽培を始めたのは、ニウトンであった。

    ニウトンはエジラマールと結婚し、4人の子供がいる:エジライネ、ニウマ、エジミウトンとニヴァウド。
    二人の娘は結婚して町の方に住んでいる。
    二人の息子はコーヒー栽培の仕事にずっと参加している。農園での営農は完全に家族経営で、家族は新しいことに取り組むことに厭わない。
    ある時ニウトンは肘を骨折し、畑仕事が出来なくなったため、彼が加入している協会でスペシャリティコーヒーついての講習に通うことに決めた。
    彼の家族は好奇心が旺盛で、講習の内容に興味を持った。
    講習で教えられたことを忠実に実行し始め、コーヒーに詳しい専門家を自分の農園に呼んだりして、仕事をやりながら、少しづつと自分たちの豆の品質が良くなっていくことに気づかされた。
    あの時の肘の骨折は不幸中の幸いで、今日、良い結果を招いたニウトンはと言う。

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  • Sebastiana de Oliveira Faria

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    セバスチアーナさんは、1947年に生まれで、ミナス・ジェライス州エスペイラ・フェリス市に位置するサン・ドミンゴスと呼ばれる集落で育ち、生活してきた。
    彼女のフルネームはセバスチアーナ・デ・オリベイラ・ファリアであるが、皆にレレナと呼ばれている。

    “オリベイラ”は、サン・ドミンゴスで生まれたブラジル人を祖先とするセバスチアーナの祖父も含めた彼の父方の苗字である。
    彼女の祖父イダリノは、トロペイロ【馬車などを使い集団で荷物を運ぶ業者】で、レオポルヂーナの街の鉄道駅から“ペドラ・メニーナ・シャーベ”と呼ばれる地方の駅まで商品を運んでいた。

    “ファリア”の名は母方からきており、レレナが言うには、曽祖母がそうであったようにインディアンのプリ族に祖先を持つ。
    このインディアン【の血統】は曽祖父により、ファリア一家に受け継がれた。
    ファリア一族はリオデジャネイロ州のナチビダージと呼ばれる町で生活し、レレナの祖父母は、そこにサトウキビの製糖工場を持っていた。
    その後、彼らは、より良い生活と、より涼しい気候を求めて、サン・ドミンゴスへ移った。コーヒー栽培を前提とし、その地域に一つの農場を買い、コーヒーを植え始めた。

    当時、“café de gaveta” と呼ばれる方法で植え付けられていた。
    コーヒー栽培は当地域で始まったばかりなので、植え付けの苗から家族によって作らなければならなかった。
    既に一家が植えていたコーヒーの樹から採った一握りの種を播くために穴を掘り、“gaveta(=引出し)”の中で発芽するまで、穴は藁で覆われていた。
    苗にまで育てられていた。

    以前は、農場内に植えられていたものは、コーヒーしかり、全てが家内消費用であった。
    非常に孤立して生活し、移動は歩くか牛車で、僅かな細道程度で、街道は無かった その為に全ての食糧は自給自足であった。
    米、豆、肉は農場内からであったが、僅かに発電のための軽油と塩を外部から求めなければならず、レレナと彼女の母は、これらの商品を一日がかりで町まで買い出しに行っていた。
    レレナの父は非常に活発で働き者であったが、片足を失っており、いくらかの制限があった。
    そのため、息子たちの助けを借り、代わりに農場を切り盛りしていたのは彼女の母であった。

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  • Marcos Antônio de Oliveira

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    マルコスは、ミナス・ジェライス州の地方都市エスペラフェリス市のポンチ・ドス・マカコ地域で1970年6月1日に生まれる。

    5歳の時、同じエスペラフェリス市のヴァルジェン・アレグレ地域に移った。

    そして25歳で結婚し、その後エスピリットサント州ドーレス・ド・リオプレットのペドラ・メニナ地域に引っ越した。

    彼の父方の曾祖母は、インデアンの血を引く。また母方の祖父はイタリア出身である。

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  • Everaldo Protázio de Oliveira

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    エヴェラルド・プロタージオ・デ・オリベイラは、エスピリット・サント州とミナス・ジェライス州の州境に位置する山岳地帯の中にあるカパラオ山脈のスペシャリティ・コーヒー生産者である。
    彼は森林とコーヒー園が連なる風景が見られる谷間の中のフォルキーリャ・ド・リオと呼ばれる小さな集落で生まれた。
    母方の祖先は、この地域か近辺で生まれ、父方の祖先はイタリアから来た移民たちであった。
    イタリア人の彼の曽祖父は、フォルキーリャ・ド・リオに来て、この地域では珍しく今も残る、その当時に建てられた大邸宅のある、ヴィラ・ジャヌアリアと呼ばれる農園を後に拓いた。

    トウモロコシやインゲン豆の栽培や畜産を営む中で、エヴェラルドの祖父は、既にコーヒーを栽培していた。
    当時の販売価格は非常に安く、僅かながら収入の足しになる程度であった。
    エヴェラルド一家の所有地の場所の都合より、コーヒーは地域のより低い場所に植えられ、僅かコーヒーが高い場所に移された。
    最初、同地域のコーヒーの木は僅かであったし、新植の為の苗も無かった。
    畠は植付を行う場所に“gavetas【=引出し】”と呼ばれる穴を掘って種を入れ、藁で覆う“café de gaveta【=引出しのコーヒー】”という方法で、徐々に広げられていった。
    発芽するのは僅かであったが、このように同地域で畠が広がっていった。

    植付は低地から丘の上へと移動されていった。
    これに伴い同地域に、外部からのバイヤーが徐々に訪れる様になった。
    それにつれ、以前は何時間もかけ牛車で近隣のちっぽけな町まで運ばなければなかったコーヒーの販売が一層容易になった。
    同地域の供給の増加とバイヤーの到来ともにコーヒーの価値が向上してきた。
    しかしエヴェラルドは、コーヒー相場の乱高下により大きな危機に直面したこともあると言う。
    80年の終わりごろ相場は突然下落し、一夜が明けて10分の1になったこともある。
    貸付金利は非常高くなり、結果としてエヴェラルドはその後5年間、借金の返済の為だけに働くという、この危機の被害を受けた。

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  • José Alexandre Abreu de Lacerda

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    生産者のジョゼー・アレシャンドレ・デ・アブレウ・デ・ラセルダは、ミナス・ジェライスス州との境に接するエスピリト・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に所在するフォルキーリア・ド・リオと言う集落で、古から知られているラセルダ家の一人のメンバーである。彼はそこで生まれ育った。

    Afonso Donizete Lacerda(アフォンソ・デニゼッチ・ラセルダは兄弟であり、他のロットで生産者として紹介しており、厳密には農園内を区画分けしているが、基本的に一緒に経営している。

    彼の高祖父はポルトガル人で、ポルトガルからエスピリト・サント州ヴィトーリア港を経由し6ヶ月の旅を経てブラジルのフォルキーリア・ド・リオに辿り着いた。
    現地で生まれ育った彼の高祖母と結婚し、今日のラセルダ家が在る。

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  • Fábio Protázio de Abreu nasceu

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    ファビオ・プロタージオ・デ・アブレウは、1980年12月生まれの、エスピリット・サント州ドーレス・ド・リオ・プレット市に位置するフォルキーリャア・ド・リオの集落における古くからの五家族の子孫である。

    彼の父方の曽祖父は、ちょうど1900年にポルトガル生まれた。
    若い時、リオ・デ・ジャネイロ州のカンタガーロに着き、ブラジルにやって来た。
    自分自身で所有でき自由になる土地を求めエスピリット・サント州を目指し、そこ【カンタガーロ】を発ち長い旅につき、今日プロタージオ家が住み、現地生れの曾祖母マリアと知り合い結婚することになるフォルキーリャア・ド・リオの集落で彼の旅を終えた。
    何年の後、フォルキーリャア・ド・リオで、ファビオと同様に、祖父母や両親は生れ、そして育った。

    一族の中でコーヒー栽培は1世紀近くになる。
    ファビオの曽祖父は1925年頃、斧で森林を切り拓き、そこでコーヒーの生産を始めた。
    その当時の農場の事情は【現在と】異なっており、コーヒーであれ全ては自家使用のために植付けられていた。
    外界とは非情に孤立して生活していたし、集落の外への商品の売り買いは難しかった。
    当時その場所には電気もなく、唯一農場の外で求めたものは、塩と灯油であった。
    ファビオの曽祖父は、これらの商品を取りに、彼の家族の住むところから1日かかる鉄道駅まで牛車で行っていた。

    ファビオの青年当時、当地では、仕事に対する多くの選択の余地はなかったし、なにしろ彼は町へは行きたくはなかったし、それをするにも金銭的な余裕がなかった。
    より良い選択肢はコーヒーで働くことであり、ファビオが従事し始めた。
    彼は、2つのことを掛け持ち、多難の時を過ごしたと語る。
    なぜなら日中を通して畠で働かなければならなかったし、その後、夜に勉強していたからである。
    ファビオは夜遅く家に帰り、働く為に早朝に起き、非常に忙しかったが、した価値はあった。

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